聖なる夜に祝福を

 あわてんぼうのサンタクロース

 クリスマス前にやってきた

 いそいでリンリンリン

 いそいでリンリンリン 

 ならしておくれよかねを

 リンリンリン リンリンリン リンリンリン

 オーストラリアって真夏にサンタクロースが来るんですよ。しかもトナカイがソリを引っ張るんじゃなくて、サーフィンで。エモい。

 半年に1回北半球と南半球引っ越してたら1年に2回サンタさんからプレゼントがもらえる。利用しない手はない。

 オーストラリア以外の南半球でもサンタという概念は存在するんだろうか。エジプトにサンタがいる気がしない。

 

 サンタは存在するか否か、いつそのことに気が付いたかみたいな話をしようと思ったが長くなりそうなのでやめた。今年のクリスマスもどうせ一人寂しく過ごしているのでその時にでも書きたい。

 

 エジプトってピラミッドがあって砂漠があってというイメージがある。というイメージしかない。でも実際はビルがバンバン建てられていて、ちゃんとコンクリートの道路があるわけで。

 日本に忍者がいなかったり、着物を着てる人がいないのと同じ。

 「その国らしさ」みたいな偏見持ってると(実際にその国に行ったりでもしない限り)ずっとそのステレオタイプに縛られそう。

 これは国だけじゃなくてあらゆること(人間関係とか)に当てはまると思うんだけど。

 

 「インドにいって世界観が180° 変わった」という人って昔ながらのインドを見て言ってるんですかね。それとも東京とさほど変わらないニューデリーとかを見て言ってるんですかね。どっちでもいいし、そんな気にするところではない気がしてきた。

 

 「聖なる夜に祝福を」というこの文のタイトルはゲームアプリ『クラッシュフィーバー』のステージ名からとった。クラッシュフィーバーは遊んでいて「気持ちいい」と思える珍しいゲームだし、もっと評価されても良いと思ってるんだけど、周りでやっている人は殆どいない。ぼくもやめてしまった。全く触れたことない人はとりあえずインストールしてみても良いんじゃないかと思う。

 こういう、もっとプレイヤーがいてもいいのに流行ってないゲームというのは沢山存在する。運営が~とか、宣伝の仕方が~とか、(攻略)情報のなさが~とか原因はいくらでも考えられるし、逆にモンストとかFGOみたいにヒットしてる作品のやばさが分かる。

 

 本当はここに『魔法使いと黒猫のウィズ』の宣伝を書きたかったんけど、萎えたのでやめやめ。

 

 最近直前になって萎えて行動しないということが多い気がする。自分に甘いというか、このくそみたいな暑さによるところが大きいと思ってるけど。

 駿台は7月の頭から夏休みに入るので、講習をアホみたいにとっている人とか、そうでなくても毎日自習室に通っている真面目な人を除けば、家にずっといることができるので暑い思いをすることはない。

 高校までも、今週末とかあたりから夏休みに入る。テストを終えて半分お遊びみたいなゆるゆるな授業(少なくともぼくがいた高校はそうだった(気がする(違ったかも)))を適当にこなし、あと1週間とか何とか言って暑さを耐える。

 大学はまだ続く。暑い。電車で立ってるのが辛くて最近は途中下車して結果といて1限に遅刻している。電車で立っていられないのは体力のNASAとか辛抱強さみたいな、ちゃんと体育に取り組んでいればなんとかなっていそうなものが原因になっている。運動してないのはヤバいし、ウェルネス(高校生以下向けに説明すると、要するに体育)とるか~と思ったけど、この暑さのなか運動するなんて信じられないし、運動するぐらいだったら運動不足&偏った食生活による生活習慣病で死んだ方がましだと思ってしまったので、ウェルネスをとることは一生ない。

 

 聖なる夜を恋人と過ごしたことがない。姉はここ数年クリスマスいないので彼ぴっぴとイチャイチャしてるのかなぁと思う。

 クリスマスにぼっちは嫌だと考えてる女性は一定数いそうだし、利害の関係が一致してるから、1日限りの付き合いとかできそう。まぁ12月26日にはよりむなしくなってそうだけど。はいセックスセックス。

 

 日本で、新しく生まれてくる人の数って(おそらく(文献を調べる気がないが))年々減ってるじゃないですか。日本は超少子高齢社会なわけだけど、これどうすんですかね。そもそも解決すべき問題でないという見方も存在するとは思うけど、解決策は考えられるべき。頭のいいひとは必死に考えてほしい。

 ぼくはどうせ生涯童貞だし少子高齢化に勢いをつける1人間にすぎないので、こんな難しいことは考えないで、今日もしこって寝る。嘘で、最近オナ禁してるので、せっかくつくられた精細胞が体外に出されることなく死んでいくことを思いながら寝る。体外に出したところで受精という本来の目的は果たされないので哀そうだとは思わない。南無阿弥陀仏

 

 ニコマコス倫理学の要旨書いてくぞといってここ1週間近く書いてないのは許してほしい。なんか疲れてた。明日あたりからまたあげていくと思う。

 

 日本がどんなに暑くても、人間は活動しなければいけなくて、それはつまり明日(今日)も学校に向かわなくてはいけないことを意味してる。ふぁっきゅー。

 

 

 

 

ニコマコス倫理学 1巻7章

注意
https://4eta.hatenablog.com/entry/2018/07/05/224715

7章「幸福の定義「徳に基づく魂の行動」」

 

 5章に引き続いて、最高善、幸福の話をする(6章は師匠のイデア論を論破する話なので本筋とは関係なかったりする)。面白いが、結構長いので飽きずに読んでほしい。

 善に順序を考えたとき最後に来るのが最高善で(1、2章参照)、最高善とは幸福である(4章参照)というのがここまでの話だった。

 

 最高善について理解を深めていく。

 まず、これまで(1章で少し触れたが)雑に「順序を入れる」「順序を考える」と言ってきたこの「順序」について考える。順序とは以下のようにして考えることができる。

 「それ自体として追及されるもの」を「他のもののために追及されるもの」よりも「いっそう完結したもの」といい、「他のもののために決して追及されないもの」を「それ自体としても、他のもののためにも選ばれるもの」よりも「いっそう完結したもの」といい、「それ自体として追及され、他のもののために追及されることが決してないもの」を「限定抜きに完結したもの」という。

 わかりにくすぎて笑ってしまった。図を入れられたら良かったがPCスキルがないので許して。ベン図を考えて包含関係で捉えてもいいし(これは適切ではなかった)、ピラミッドのようなものを思い浮かべて上から位置付けてもいいし、適当な階層構造を考えてもいい。

 要するに言いたいことは、「どれくらい完結しているのか」によって不等号を考えることができて、それが順序ということだ。

 「完結した」というのはtéleiosの訳で、他に「完全な」「最終の」などが訳として与えられる。英語では「complete」。度々出てくる重要単語なので単語のイメージを掴んでおくといい。

 

 善に順序を考えたとき最後にくるのが最高善で、最高善とは幸福のことであったから、幸福とはすなわち、それ自体として追及され、他のもののために追及されることが決してない「限定抜きに完結したもの」である。

 また、幸福というのはこの性質から次のことが言える。幸福は”幸福以外の事柄と同列に並べられるものとして”最も望ましいわけではない。もし幸福がそのほかの事柄と同列に並べられるとしたら、幸福に何かを加算することでより善い(より完結した)ものができてしまい、これは幸福が最も完結したものであることに反するからだ。

 

 ここまではこれまでのまとめのようなものであって、7章はここからが本題になる。

 幸福とは明確に何であるか、それを考える。これにあたって、まず人間という種特有の「はたらき」を把握する必要がある。なぜなら、善というのは、はたらきのなかあると思われるから。具体的には、彫刻家のはたらきが「造形物としての彫刻をつくること」であり、これが彫刻家にとっての善につながるように、人間のはたらきという面から人間の善について考え、ひいては幸福についてその概念を掴むようになるということである。

 人特有のはたらきとは何か。「生きること」は動植物に共通することであり、「感情的に生きること」は動物に共通することだ(と少なくともアリストテレスは考えていた)。従って(この「従って」はぼくにとって行間があるように思えるが)、残る候補である「ロゴス(分別)に基づいて生きること」が、人特有のはたらきがあるとすれば、人特有のはたらきということになる。

 ロゴスについて。人を説得する3要素として、アリストテレスは「ロゴス(論理)」「エトス(信頼)」「パトス(情熱)」をあげている。このブログはプレゼンを成功させたい人を啓蒙することが目的ではないし、高校で倫理を学んでいればこの話は馴染みが深いものだと思われるので詳しくは触れない。ロゴスというのはつまり知性のことで、人特有のはたらきは知性的に生きることだという話。(つまり、性欲に支配されたsexは猿でもできるが、そうじゃないsexは人特有のものであるということ(?))

 以下この仮定(人のはたらきは分別に基づく魂の活動である)の下で話をすすめる。

 ピアニストとプロのピアニストは、はたらきが類において同一である。"類において"というのがいきなり出てきて頭のなかに?が浮かびがちだが、(ピアニストとプロのピアニストは)似てるようなぁと思ってくれればそれで十分(「類」とかの話をちゃんとするにはアリストテレスの別の本に手を出さなければいけない)。このように、「この人間」と「この優れた人間」とでは、はたらきが類において同一である。ただし、ピアニストのはたらきは「ピアノを演奏すること」であるのに対して、プロのピアニストのはたらきは「優れた演奏をすること」である。

 このとき、このはたらきをある種の生とし、人特有の生を、分別に基づいた活動としているので、自身のはたらきを立派に成し遂げる人は優れた人である。

 従って(この従っても行間あり、後で埋めるかも)人間にとっての善とは、徳に基づく魂の活動ということになる。活動であるということが大事(何もしなかったらそれは善ではない)。

 具体例。学生は学び、理解をする。テストが(コミュ力をはかるものではなく)理解度をはかるものなら、学生が自らのなすべきことを成しているかはテストによって測られる。学生と、優れた学生は、求める点数こそ違うが、学び理解していれば、それは自身のはたらきを立派に成し遂げているので優れた人である。ただし他者に理解していることが伝わらなければ(テストで点がとれてなければ(これが適切な礼でないことは認める))それは善として十分ではない。

 

 以上をもって、「善」を理解するための要点は全て挙げられたとする。詳細は、各自が時間をかけて考えていけばいいことである。

 また3章で述べたように、倫理学のような学問はその輪郭をおさえられたらそれで一端満足して次に進むべきである。倫理学はそうせざるを得ない学問であるから。

 さらに、同じく3章で述べたように、事実が原理であり、これがスタート地点である。原理については探求し、きちんと定義しなければならない。一方、原因というものは、時としては事実が示されていれば、それで十分としなくてはならない。(分かりにくいが、「重力が存在する」は原理で、「なぜ重力が存在するのか」を考えるのが原因)

 

 7章はここまで。最高善の話と、人のはたらきから善について考えることと、聴講(読書家)の仕方の3本立てだった。書き足りない感があるので随時更新しそう。じゃあね。

ニコマコス倫理学 1巻 6章

注意

https://4eta.hatenablog.com/entry/2018/07/05/224715

 

6章「プラトンの善のイデアに対する批判」

 

 本文に入る前にプラトンとかイデア論の話をする。イデア論に関してぼくは何も分かってないので読み飛ばした方が良いかもしれない。

 プラトン古代ギリシャの哲学者で、ソクラテスの弟子、アリストテレスの師で、イデア論を中心に哲学を展開した。代表的な著書は『国家』。これはセンターで世界史選択だったぼくが直前に詰め込んだ知識だけど、センター世界史で点とる分にはプラトンはこれで十分だった。

 6章はイデア論批判なので、やはりイデア論について知っておく必要があるだろう。と思ってイデア論についてググったり本読んだりしたんだけどやっぱり良くわからないので6章の話は夏休み中に時間つくって書こうと思います。

 6章で言いたいことは、アリストテレスは、師匠のイデア論を批判して自分の説の方がすごいぞって話です。

 いや、本当に後でちゃんと更新するから許して

ニコマコス倫理学 1巻 5章

注意

https://4eta.hatenablog.com/entry/2018/07/05/224715

 

5章「代表的な3種類の生き方の検討」

 

 4章で「最高善」って「幸福」だけど、この幸福の意味は一意に定まらないよね~という話をしてて、5章は代表的な3種類の生き方を検討することで各々の幸福を考える。

 

 代表的な3種類の生き方とは「享楽的な生活」「政治的な生活」「観想的な生活」である。

 一般大衆(最も粗野な人々)は、善や幸福を快楽のことだと理解している。彼らは享楽的な生活を好む。アリストテレスは(自身は一般大衆に含まれないことを確信しているのか)この生活を、家畜が送るような生活でまさに奴隷のようだ、と評している。なお、この生活を好むことは彼らの生活を考えれば理由があるとも言っている。

 立派で行動力のある人々は、善や幸福を名誉だと理解している。彼らは政治学的な生活を送っていて、この生活の目的は、名誉だからである。しかし名誉は与えられる側より与える側に依るもので、善というのは、それをもつ人に固有のものであり、その人から奪い取りがたいものであろうから、名誉というものも真に生きる目的にはならないとはしている。また、名誉を追求するのは、自分が善い人間であると確信したいためで、つまり、彼らは思慮深い人々から、自分のアレテー(徳)(アレテーについては次の段落で)を理由に名誉が与えられることを欲している。これだと、政治学的な生活の目的が徳ということになりそうだが、徳というのは持っていても何もせずに人生を過ごすこともあり、また苦境や不運に見舞われることもありうるから、徳というものも目的として適切ではない。

 この2つの生活については、本書ではなくて、別の本(例えば『哲学のすすめ』)に詳しく書かれているらしいので、気になる人はそれを読むと良い。

 アレテーの話をする。アレテー(ἀρετή)とは、「人間の持つ気質や能力に、社会性や道徳性が発揮されたものである」。これはweblio辞書からコピペしたが、かなり分かりやすいと思う。要するに能力のことで本書はこれを徳と訳している(たまに卓越性と訳される)。徳ときくと人徳みたいなものを連想しがちだが、あくまでも能力である。

 最後に、観想的な生活についてだが、これは第10巻でしっかり考察するのでここでは触れない(は?)。アリストテレスはこれを幸福な生活の最有力候補としている。

 三つの生活とは外れてるが、金儲けの生活というのは、生活の必要によって強いられた生活であり、富というのは他の物の為のものであるから、これも目的からは除外される。

 快楽、名誉、徳といったものは、それ自体が好まれるものてあるが、それが真に探求されるべきものでないのは上で述べた。これらを支持する多くの言説はこれで論破した。

 

 というわけで、5章はここまで。結局アリストテレスの考える幸福というのは10巻まで語られない。かなしい。(どうしても気になるならば10巻を読むと良い。)

 ぼくはとりあえず今疲れているので、ポチャポチャお風呂とあったかい布団で眠ることが何よりも幸福に思える。今気づいたら1時なんだけど、お風呂入って諸々のことやって、2時前だったら無限に寝るし、2時以降だったら3時からのW杯見るか~という気持ちになってる。

 おやすみ世界。

ニコマコス倫理学 1巻4章

注意

https://4eta.hatenablog.com/entry/2018/07/05/224715

 

4章「幸福は倫理学の目的であるが、人々の激しい論争の的である」

 

 3章の聴講の仕方を挟んで、4章は再び善の話になる。2章では、善に順序を考えたとき、最後にくるものを「最高善」とした。4章では、この最高善が何なのかを考えることになる。

 

 最高善とは、「幸福」である。これは大方の人々によってほぼ意見が一致し、一般の良識ある人達が(最高善を)幸福と呼んでいて、「よく生きること」、「よく行うこと」、「幸福であること」と同じである。

 ここまで、善、最高善、幸福と挙げられ、幸福とは何なんだという話になる。

 幸福というのは、その中身については意見に相違が見られる。というのも、一般の多くの人々にとっては快楽や富や名誉といった目に見える明白なものを幸福と考えがちだが、これは知識ある者の間ではそうとは限らないし、また同じ人でも、病気の時は健康を、貧乏な時は富をといったように、時と場合に応じて意見が変わる。

 幸福の中身について、これら全てを検討するのは適切ではなくて、最も普及してる、もしくは理にかなっていると思われる意見のみを検討すれば良い。

 

 また、原理から出発する議論と、原理へと向かう議論が異なることを喚起する。

 前者は、数学に代表され、公理から始め、個々のテーマについて考えいく。対して後者は、我々がよく知っている事柄、常識から議論を始め、原理を探求する。

 本書は、主に後者がとられている。

 また、よく知っている事柄から議論を始めることから、経験が不足している若者は聴講に相応しくないとし、逆に事実をよく知るもの(経験を積んでいる者)にとっては、議論の出発点が明白であり、こういう人が聴講に相応しいとしている。3章の繰り返していえば繰り返し。

 

 4章はここまで。最高善とはすなわち幸福であるということと、帰納的に考えるのか演繹的に考えるのかって話をした。幸福については、このあとは触れていく。じゃあね。

ニコマコス倫理学 1巻3章

注意

https://4eta.hatenablog.com/entry/2018/07/05/224715

3章「倫理学的講義を受講する際に心がけておくべきポイント」

 

 政治学が考察の対象とする「善」というのは多くの相違、ゆらぎがある。このようなゆらぎのある題材を扱う際には、真理を大雑把に、また輪郭だけを明らかにすることで満足すべきである。(細部を気にする必要はない。)つまり、数学みたいにきっちりしなくていいということ、扱う題材がそもそもwell-definedではないので。

 人は誰しも、自らが知っている事柄については判定を正しく下せる。従って、各々の事柄について教育を受けた人がその事柄について優れた判定者となる。逆に、若者は人生における様々な行為について未経験である、つまりその行為について正しく判定を下せないことから、政治学の聴講者(本書がアリストテレス講義ノートであることを考えると、聴講者=読者)に相応しくない。さらに、若者は経験が不足なだけでなく、感情に従いがちなので、やはりこの講義をきくのは無駄であり無益である。

 ただし、若者といっても、ロゴス(分別)に従い行為する人にとってはこの講義は有益なものとなるだろう。

 

 というわけで、3章は講義の聴講の仕方と聴講者について(つまり本の読み方と読者について)書かれている。アリストテレスもお互いにとって不毛そうなヤンキー相手には講義したくなかったんだということで、3章はここまで。

 3日坊主なので毎日書くのがとてもしんどいし、毎日動画投稿してるyoutuberヤバすぎではってなってる。じゃあね。