ニコマコス倫理学 1巻1章

注意書き

https://4eta.hatenablog.com/entry/2018/07/05/224715

 

 1巻のテーマ(タイトル)は「幸福とは何か はじまりの考察」ということで幸福について考えることになっている。1巻に限らず10巻通してそんな気がする。

 

 第1章「行為の目的の系列から善さについて考える」

  

 全ての人間の営みは、必ず何らかの善を目指すという。

 

 この善というのは今後度々でてくる超重要単語のわりに意味が明らかでない(ギリシャ語でどう書かれているかわからない)。goodとして捉えてもいいし目標という意味で捉えてもいいし、到達点、行き先みたいな意味で捉えてもいい(と思う)。基本的にぼくは「善」を「目標」として考えて、それが不都合なときは「到達点」のような、「目標」より広い意味で取る。

 

 活動(行為)そのものを目的にするのか、活動(行為)によって得られる成果を目的にするのか。どちらも善であるが、(ある成果を求めて行われている)行為と、その行為による成果を比べた際、その成果の方が善いとされる。

 例えば、おいしいものを食べることを目的とするグルメ(食通、美食家)なら、食べるという行為そのものが目的になるだろうし、庶民は(庶民に限定しなくていいが)、お腹を満たすために食事をとるので、空腹を解消することは、食事をとるという行為より善いとされる。

 

 行為や技術や学問(etc)は数多くあるのでそれに応じて善も数多くある。(それはそう。)

 

 営みが何らかの善を目指してるとした上で、その善が別の善のもとに束ねられることがある。

 どういうことかというと、馬術というひとつの技術の下には、馬勒(グスタフマーラーのことではない。馬具の一部で、おもがい、くつわ、手綱などからなる、耳から口にかけてかけられてる布のこと)を作る技術など、馬に関する技術の諸部分となる諸々の技術が束ねられる。また、この馬(馬術)の技術は、戦争に関わる他のあらゆる行為とともに、戦争術という1つの技能のもとに束ねられ、この戦争術というのも、政治術(今適当に考えた造語)のような1つの技術のもとに束ねられる。馬を戦争の技術としてあげたのはアリストテレスの時代だからであって(この例は本文からそのまま引用した)、今なら暗号技術とか、戦闘機の操作とか、まあなんでもいい。

 このようなとき、より支配的な目的のほうが、その下の目的よりも善い(望ましい)。なぜなら支配的な目的のために、その下の目的は追求されるから。

 

 

 1章はこれで終わり。思ったより長くなってしまった。