ニコマコス倫理学 1巻7章

注意
https://4eta.hatenablog.com/entry/2018/07/05/224715

7章「幸福の定義「徳に基づく魂の行動」」

 

 5章に引き続いて、最高善、幸福の話をする(6章は師匠のイデア論を論破する話なので本筋とは関係なかったりする)。面白いが、結構長いので飽きずに読んでほしい。

 善に順序を考えたとき最後に来るのが最高善で(1、2章参照)、最高善とは幸福である(4章参照)というのがここまでの話だった。

 

 最高善について理解を深めていく。

 まず、これまで(1章で少し触れたが)雑に「順序を入れる」「順序を考える」と言ってきたこの「順序」について考える。順序とは以下のようにして考えることができる。

 「それ自体として追及されるもの」を「他のもののために追及されるもの」よりも「いっそう完結したもの」といい、「他のもののために決して追及されないもの」を「それ自体としても、他のもののためにも選ばれるもの」よりも「いっそう完結したもの」といい、「それ自体として追及され、他のもののために追及されることが決してないもの」を「限定抜きに完結したもの」という。

 わかりにくすぎて笑ってしまった。図を入れられたら良かったがPCスキルがないので許して。ベン図を考えて包含関係で捉えてもいいし(これは適切ではなかった)、ピラミッドのようなものを思い浮かべて上から位置付けてもいいし、適当な階層構造を考えてもいい。

 要するに言いたいことは、「どれくらい完結しているのか」によって不等号を考えることができて、それが順序ということだ。

 「完結した」というのはtéleiosの訳で、他に「完全な」「最終の」などが訳として与えられる。英語では「complete」。度々出てくる重要単語なので単語のイメージを掴んでおくといい。

 

 善に順序を考えたとき最後にくるのが最高善で、最高善とは幸福のことであったから、幸福とはすなわち、それ自体として追及され、他のもののために追及されることが決してない「限定抜きに完結したもの」である。

 また、幸福というのはこの性質から次のことが言える。幸福は”幸福以外の事柄と同列に並べられるものとして”最も望ましいわけではない。もし幸福がそのほかの事柄と同列に並べられるとしたら、幸福に何かを加算することでより善い(より完結した)ものができてしまい、これは幸福が最も完結したものであることに反するからだ。

 

 ここまではこれまでのまとめのようなものであって、7章はここからが本題になる。

 幸福とは明確に何であるか、それを考える。これにあたって、まず人間という種特有の「はたらき」を把握する必要がある。なぜなら、善というのは、はたらきのなかあると思われるから。具体的には、彫刻家のはたらきが「造形物としての彫刻をつくること」であり、これが彫刻家にとっての善につながるように、人間のはたらきという面から人間の善について考え、ひいては幸福についてその概念を掴むようになるということである。

 人特有のはたらきとは何か。「生きること」は動植物に共通することであり、「感情的に生きること」は動物に共通することだ(と少なくともアリストテレスは考えていた)。従って(この「従って」はぼくにとって行間があるように思えるが)、残る候補である「ロゴス(分別)に基づいて生きること」が、人特有のはたらきがあるとすれば、人特有のはたらきということになる。

 ロゴスについて。人を説得する3要素として、アリストテレスは「ロゴス(論理)」「エトス(信頼)」「パトス(情熱)」をあげている。このブログはプレゼンを成功させたい人を啓蒙することが目的ではないし、高校で倫理を学んでいればこの話は馴染みが深いものだと思われるので詳しくは触れない。ロゴスというのはつまり知性のことで、人特有のはたらきは知性的に生きることだという話。(つまり、性欲に支配されたsexは猿でもできるが、そうじゃないsexは人特有のものであるということ(?))

 以下この仮定(人のはたらきは分別に基づく魂の活動である)の下で話をすすめる。

 ピアニストとプロのピアニストは、はたらきが類において同一である。"類において"というのがいきなり出てきて頭のなかに?が浮かびがちだが、(ピアニストとプロのピアニストは)似てるようなぁと思ってくれればそれで十分(「類」とかの話をちゃんとするにはアリストテレスの別の本に手を出さなければいけない)。このように、「この人間」と「この優れた人間」とでは、はたらきが類において同一である。ただし、ピアニストのはたらきは「ピアノを演奏すること」であるのに対して、プロのピアニストのはたらきは「優れた演奏をすること」である。

 このとき、このはたらきをある種の生とし、人特有の生を、分別に基づいた活動としているので、自身のはたらきを立派に成し遂げる人は優れた人である。

 従って(この従っても行間あり、後で埋めるかも)人間にとっての善とは、徳に基づく魂の活動ということになる。活動であるということが大事(何もしなかったらそれは善ではない)。

 具体例。学生は学び、理解をする。テストが(コミュ力をはかるものではなく)理解度をはかるものなら、学生が自らのなすべきことを成しているかはテストによって測られる。学生と、優れた学生は、求める点数こそ違うが、学び理解していれば、それは自身のはたらきを立派に成し遂げているので優れた人である。ただし他者に理解していることが伝わらなければ(テストで点がとれてなければ(これが適切な礼でないことは認める))それは善として十分ではない。

 

 以上をもって、「善」を理解するための要点は全て挙げられたとする。詳細は、各自が時間をかけて考えていけばいいことである。

 また3章で述べたように、倫理学のような学問はその輪郭をおさえられたらそれで一端満足して次に進むべきである。倫理学はそうせざるを得ない学問であるから。

 さらに、同じく3章で述べたように、事実が原理であり、これがスタート地点である。原理については探求し、きちんと定義しなければならない。一方、原因というものは、時としては事実が示されていれば、それで十分としなくてはならない。(分かりにくいが、「重力が存在する」は原理で、「なぜ重力が存在するのか」を考えるのが原因)

 

 7章はここまで。最高善の話と、人のはたらきから善について考えることと、聴講(読書家)の仕方の3本立てだった。書き足りない感があるので随時更新しそう。じゃあね。